花の行方 1
「望美さん」
数人の女房たちと庇(ひさし)で娘を遊ばせていた望美は、聞こえるはずのない声にびっくりして振り向いた。
「あれ、銀、どうしたの?」
いつもなら伽羅御所にいる時間なのに、ひょっこりと館に戻ってきた夫に驚いた顔になる。
「あ、とうさまー」
さっそく気づいた瞳子(とうこ)が庇を横切って、ととっと銀に駆け寄った。数えで五歳。ここのところずいぶん成長した感があるものの、まだまだ小さい体を銀はふわっと抱き上げた。
「瞳子、いい子にしていましたか?」
「はーい」
すべすべした頬に唇を寄せると瞳子がくすぐったがって、きゃっきゃっと笑った。愛らしい笑顔に銀も相好を崩す。美男の誉れ高い父親とその愛娘の情愛に満ちた光景に、周囲の女房たちがほうとため息をついた。
瞳子は幼子ながら、名前そのままに艶々とした大きな瞳は、見る者を皆はっとさせる。母親そっくりのわかばの輝きの奥にはかすかにすみれ色が潜んでいるようでもあり、いずれその瞳の秘密が知りたくて気も狂わんばかりの貴公子たちが、門前に列をなすことになるのだろう。
かたちのよい眉や長い睫毛、通った鼻筋、ふっくらした口元など、望美は銀に似ていると思うが、銀は望美に似ていると言う。何にしても愛くるしいことこの上ない姫君である。
腕に抱く娘の頭を撫でつつ、銀はそばの女房の膝の上でお昼寝中の一昨年生まれた息子をのぞきこみ、すこやかな寝顔に目を細めて望美に言った。
「あなたをお呼びするようにと泰衡様が。文をお送りするより私が来た方が早いので、お迎えにまいりました」
「何かあったの?」
「さて。私にはおっしゃってくださいません。私たちがそろったところでお話になりたいそうなのですよ」
「いったい何だろ」
望美は眉を寄せた。現在のこの国は大きな争いもなく平穏だけれど、こればかりはいつ何が起こるかわからない。望美の心をやわらげるように銀は笑みを浮かべた。
「ああ、気をつけて。そんなに眉間にしわを寄せると泰衡様のようになってしまいますよ。せっかくのかわいらしいお顔が……」
望美はあせって額に手をやる。女房たちがほほほ、と口元を袖で隠して笑った。瞳子が不思議そうな顔で母親に問いかけた。
「かあさま、やちゅひらさまみたいになっちゃうの? すじくっきり?」
「ううん、大丈夫。泰衡さんみたいになるには何年もかかるから」
「……私が思いますに、そう悪い知らせではないだろうと」
たぶん銀以外にはわからないことだろうが、よくない話の時には泰衡の口の右脇のしわが微妙に深くなるのだ。今日はそれがなかった。
「とりあえず、行かなくちゃね」
立ち上がる望美に銀がすかさず手を貸す。まだめだだないが、半年後には三人目を出産予定なのだ。ふたりの子の母となっても以前と同じ軽やかさと瑞々しさを失わない望美だが、さすがにおなかに子どもがいると動きもゆっくりしたものになる。
「身重のあなたにご足労いただくのは心苦しいのですが……牛車を呼びましょうか」
「平気、近いもん。それにここのところあんまり外に出てないし、伽羅御所までならちょうどいい散歩だよ」
「本当に大丈夫?」
のぞきこんでくる銀に、望美は笑顔でうなずいた。
「体調はとてもいいの。ほんと」
もうずいぶん前になったが、瞳子を産んだ時はいろいろ大変だった。銀はその際のことがいまだに忘れられないらしい。二人目のお産はずっと軽かったのだけれど……。自分に向ける夫の想いを知っているだけに、望美としても銀をできるだけ安心させてあげたいと思っている。
「じゃあ瞳子、父様と母様は伽羅御所まで行ってくるから。おとなしくして待っててね」
「やちゅひらさまのところ?」
「そうですよ。私たちは泰衡様のお召しで行くのです」
すると瞳子は目をきらきらさせて、がぜん自己主張しはじめた。
「とうこもいきたい。やちゅひらさまにあいたい」
「うーん、たっくんといっしょにお留守番できない?」
「だって、あいたいんだもん」
銀と望美は顔を見合わせた。望美が秀衡の養女となった関係で泰衡は瞳子の義理の伯父にあたるわけだが、瞳子はその伯父が大好きだった。むっすりと唇を引き結び、いつも額に縦じわを寄せている藤原の総領に対してまったく臆するところがない。
泰衡は泰衡で、子どもなど好かぬという雰囲気をいつもありありとただよわせているくせに、瞳子に懐かれるのはいやではないらしく、おぼつかない手つきで抱き上げたり菓子をやったりしている。これも瞳子が生まれた時からの望美の働きかけがみごとに成功したためだろうが……。
「どうしようか、銀」
「連れて行きましょう。泰衡様も喜ばれるかもしれません」
銀は、もしや泰衡の話は瞳子に関係したものなのではないかと考えていた。昨日、思い出したように泰衡が「近いうちに瞳子を連れてこい」などと言っていたこともある。娘はしょっちゅう伽羅御所に遊びに行っているのだから、あらためて言わずともいいようなものなのに。
銀も望美も平泉の街を歩く時は単身か、供を連れているとしてもひとりくらい。これはその立場からするとめずらしいが、ふたりともおおげさなことが嫌いなのと、自分の身は自分で守れる力の持ち主であるのと、あとは奥州随一の都市となった平泉が治安面でも誇れるものを持っているからである。
と言っても、万が一に備えて今日はふたりほど供を連れて行くことにした。小さな子ども連れで望美は妊娠中。銀がいくらすぐれた遣い手とて、用心に越したことはない。
通りを歩く彼らに人々は深く頭を下げる。望美、銀、そして瞳子の顔もよく知られていた。
「神子様、よいお子をお生みくだされ」
老人が道の脇で腰をかがめてお辞儀をする。あたたかな声に望美がうれしそうに礼を言う隣で、銀が微笑み会釈した。母親と手を繋いでいる瞳子が尋ねた。
「ねえかあさま、いつあかちゃんくるの? はやくこないかな」
「もうしばらく待っててね。赤ちゃん、まだちっちゃくて外には出られないから、母様のおなかにいなくちゃならないの」
「うん」
おしゃまな瞳子は、いっしょにままごと遊びのできる妹がほしいと言っていた。弟の龍太丸(たつたまる)のこともお姉さんらしくかわいがっているが、男の子とままごとはできないと子どもなりに考えているようだ。望美と銀は、元気に生まれてくれれば男女どちらでもいいと思っている。
銀の館から伽羅御所はすぐ近く。勝手知ったる御所の中、泰衡が執務を執り行っている部屋に入り、望美は気軽に声をかけた。
「泰衡さん、元気?」
「ようやく来たか。待ちかねたぞ」
文机の向こうの泰衡が、文書から目を離さぬまま答える。
「やちゅひらさま! こんにちわ」
「む、瞳子」
頭を上げた泰衡は、望美のうしろからひょこりと顔を出した小さな姿にわずかに目元をなごませ、すぐにまた厳しく引き締めた。銀と望美はその前に腰を下ろし、望美は夫が引き寄せてくれた脇息に寄りかかった。
整った怜悧な容貌は相変わらず、隠居した秀衡のあとを継いで泰衡自身が御館と呼ばれるようになり数年を経て、その姿にはすでに堂々たる威厳がそなわっている。望美からするともう少し笑顔を見せてもいいのにと思うのだが、若さに似合わぬ眉間の縦じわは奥羽の山脈のごとくくっきりとそびえ立ち、常に消えることはない。
だが瞳子はおかまいなしに彼の膝の上に乗り上がり、さっそくしゃべり出した。
「ねえねえやちゅひらさま、このあいだね、かあさまといっしょにおやまにいったら、きれいなおはながたくさんあったの。おしばなにしたの。こんどあげる」
「瞳子、泰衡様のお邪魔になりますよ。こちらへおいで」
「かまわん、銀。今回の話は瞳子についてのものなのだ。
……こら瞳子、やめなさい。私の髪はおもちゃではない」
「はぁい」
瞳子は泰衡の長い黒髪から素直に手を離した。先日、花輪の作り方を女房に教えてもらってから、瞳子は細く長いものを三つ編みにすることにひどく興味を示しているのだ。
「まずは、読め」
銀は泰衡が手箱の中から取り出した書状を受け取った。
「これは……京の藤原様からの」
「そうだ」
奥州藤原家は京の藤原摂関家と深いつながりを有している。泰衡の母もそちらに連なる出身であり、両家の間では昔から物や金、人の往来がさかんだった。内裏の中枢にも関わる藤原摂関家との太い絆を通じて、北の地にありながら泰衡は、表立って語られないようなものまで含めて京の情報を驚くほどの速さ詳しさで入手できるし、朝廷に対する働きかけも不断に行っているのである。
「昨日、届いたものだ。さすがに私ひとりで決められる話ではないのでな、神子殿にもわざわざ来ていただいたというわけだ」
言いながら泰衡は、机の下から子どもの手のひらに乗るほどの小箱を出して瞳子に渡した。姪のために用意しておいたものらしい。細かな装飾が施された蓋を開けると、指先ほどの大きさの丸い菓子がいっぱいに詰まっていた。ただよう甘い香りに目を輝かせながら、瞳子はためらうことなくひとつ口に入れた。
「おいしい! やちゅひらさまにもあげる、はい」
ちっちゃな指で一粒差し出されたが、泰衡は首を横に振った。
「いや、私はよいのだ。好きなだけ食べなさい。それはおまえのものなのだからな」
「ありがとうございます、やちゅひらさま」
舌足らずながら頭を下げてていねいに礼を述べるしぐさは人形のように愛らしく、泰衡ですら笑みを誘われずにはおかない。
「よい子だ。銀のしつけはまずまずと見える」
満足そうな伯父と姪のやりとりをよそに、銀と望美は書簡を読んだ。こちらでの生活も長くなり、望美もくねくねした字体を何とか判読できるようになっている。書き手は藤原摂関家の有力者。時候についてのくだくだしいあいさつが続いたあと話がようやく本筋に入り、読み進めて望美は思わず大声を上げた。
「ええっ、瞳子を京に?」
自分の名前が出たことに瞳子は一瞬きょとんとしたが、すぐに興味を菓子に戻した。書簡にはその瞳子の今後について書かれていた。
『……過日、帝と院が親しくお言葉を交わされた際、先の源平合戦についてお話が及ばれた由。その折、院より龍神の神子様のお美しさ気高さ、怨霊浄化の不思議なお力を聞き及ばれますに、帝はいたく興味思し召され、ぜひ神子様をお側にお呼びになりたいとお望みあそばれたとのこと。されど神子様は、すでに遠く平泉にて嫁がれ幸せにお暮らしの身、なれば残念ではあるがとおあきらめになられた旨うかがっております。
しかしながら後ほど内々に院よりお話がございましたのは、神子様がもうけられたという姫君がすこやかにお育ちならば、その姫を当家でお預かりしてご養育申し上げ、しかるのち帝のお側に上げてはいかがであろうかと。
この件、どうぞよしなにご検討のほどを』
大意はそんなところだ。院とは後白河院。帝とは、退位した安徳帝の弟で、その後に即位した今上の帝のこと。
「ちょっと待ってよ! 瞳子はまだ五つだよ!」